懺 悔 記

虎になりたくない、三十路目前女子のブログ。

書くこと読むこと

ものを書くというのは、知的生命体だけに許された、きわめて崇高な作業である。

 


さて、この出だしからわかるように、例によって、情緒不安定なままである。
なぜ人は、精神が安定しないときに限って壮大なテーマを扱おうとするのだろうか。
理由は単純、現実逃避したいからである。
ロイヤルホストのパンケーキにいたく執心し、「 今日は頑張ったから」などという具体性のない理由を以て毎晩のように食していたところ、 1kg太った。
当然の帰結であるが、この現実を受け入れたくないがゆえに逃避する。
しばしお付き合いいただきたい。


さて、ものを書くという作業について。
ものを書こうとするとき、人はまず、何かしらのテーマを見つける。
次に、そのテーマについて、自分は何を感じたか、感覚と言葉を結び付ける。
さらに、そう感じるに至った理由や自身の意見を論理的に組み立て、これまた言葉に落とし込む。
ふわふわした情動を言葉でとらえて、自身のコントロール下に置く作業が、ものを書くということだ。
したがって、ものを書く人は湯婆婆である。


上記の文章は、「したがって」以降に論理の飛躍がある。 良くない使用例だ。


さて、何が言いたいかというと、下記のとおりである。
相手の名前を知り、 それを奪って湯屋に縛り付けコントロールする湯婆婆って、 ものを書く人と共通するところあるんじゃない?


名前を知るのは、対象の本質を掴むことに似ている。名前を知る(=対象の本質を知る)ことで自分のコントロール下に置くという古代の呪術的発想も、あながち間違いでもないような気がしてくる。
人を支配するのはいただけないが、自分の感情くらいはコントロールしておかないと、知的生命体として情けない。
感情に主導権を握られた結果、盗んだバイクで走り出す羽目になるのである。


ものを書くには語彙がいる。
語彙は、会話や読書によってインプットされ、 書くことによってアウトプットされる。
しかし今、この両方の機会が失われていないだろうか。


インプットの機会は、テレビやYouTubeにとって代わられた。
これらは延々と映像・音声を流し続けるため、情報は一方通行で、視聴者は受動的にならざる負えない。
アウトプットの機会も、奪われつつある。
ネットが大衆に普及し始めたころは、個人ブログが流行っていた。 かくいうとら子も、友人と一緒にほーむぺぇじなるものを開設し、とりとめのない駄文を垂れ流していたものである。
ハリウッドセレブに憧れていたとら子は、雑誌で聞きかじった根も葉もない情報を編纂して日記に掲載するという、三流ゴシップ記者まがいのことをして自己満足していた。セレブに憧れていたのか記者に憧れていたのかよくわからない。


さて、時代は流れ、今度はFacebookなるものが流行り出した。 これもまだ日記のように、長文を掲載することができるコンテンツであったため、友人たちの近況報告を読む楽しみがあった。
Facebookと同時期に人気を博したのがTwitterだ。 140字という短文で、思ったことをタイムリーに「つぶやく」 コンテンツである。
文章で表現しようとするだけ、まだアリの部類かもしれないが、「 つぶやき」は垂れ流しに等しい。そこに起承転結はないのである。 Twitterの登場は我々から、文法というか、話を構成する力を奪っていったような気もする。

しまいに出てきたのはInstagram である。もう、字がいらないのである。たった1枚の写真をもってして主張するのである。

写真が悪いと言っているわけではない。このようなSNSが主流になりすぎてしまうことで、読む機会や書く機会が失われることを危惧しているのだ。

また、上記SNSの変遷は、人の集中力をも奪ってきた。文章を読むことと、写真をパッと見ることは全く違う行為だし、そこに対話や想像が存在しない。

 

着地点を見失った。

 

要するに何が言いたいかというと、本を読もうぜ、文章書こうぜ。とら子情緒不安定だぜ。

と、いうことのようだ。

 

アイキャンディーに会いたい。

思いは募る一方である。