懺 悔 記

虎になりたくない、三十路目前女子のブログ。

国際電話と新しい出会い

繰り返し言うが、暑い。

日差しに殺意を感じる。

朝、ちょっと散歩に出たら、蒸し殺されそうになった。

蒸し野菜の気持ちが、ちょっとわかった。

 

さて、昨晩、ブログを書いた勢いに任せ、チェコ在住の友人にLINEで泣きついた。

いきなり「オーストリアに移住したい」という、わけのわからないメッセージを送ったが、とら子の上を行くわけのわからない彼は、LINE電話をかけてきてくれた。

開口一番、挨拶が「ナマステー」である。

これだけでも変人確定だが、久しぶりに食べた味噌汁が美味しいという報告とともに、もうほとんど食べ終わっている椀を見せつけてくる。

余計な情報が多すぎるのであった。

 

彼の名は健太郎(仮名)。

とら子がまだ可愛い大学生だったころ、スーパー銭湯で働いていたのだが、同じ日に入職したバイト仲間だ。健太郎、もといけんちゃんは、けっこう変わっている。

というか、とら子の周りには基本的に自由気ままな人たちが集まる傾向があり、彼もその中の一人であった。当然のように、めっちゃ仲良くなった。

けんちゃんは、今、チェコに住んでいる。チェコのオーケストラに所属して、トランペットを演奏している。大出世である。

 

とら子は、けんちゃんに訴えた。

ここ最近、緑を求めて関西近郊の田舎を巡ったが、しっくりこない。

雑然とした街並み、視界を邪魔する電線、狭くて遠い空。

添加物の多い食品、旧態依然とした社会規範。

口に出して言われることはないけれど、周囲から求められる役割。

なにもかも嫌になってしまった、と。

しかし、そう訴えながら、とら子の中に罪悪感があったのも事実である。

この日本社会に、ここまで育ててもらった事実もあるし、自分の努力不足、現実逃避なのでないかという気もする。

でもけんちゃんは、「とらちゃんがそう思うならそうなんだよ」と、否定せずに聞いてくれたのであった。

そしてとら子の自虐癖を指摘し、「自分はダメだっていう、その思考に死んでもらおう」という斬新な発案をする。

子どもみたいに純粋に、やりたいことに、うわー!って目を輝かせて没頭できる境地に行けば、オーケストラのオーディションは受かりまくるんだそうだ。

でも、日本でその境地に行くのって、周りの目もあるし難しいよね、と。

そうして、窓の外に広がるチェコの自然を見せてくれる。

 

希望は目標に変わりつつあった。まじでオーストリア行きたい。

 

チェコの自然(時折、雑然とした室内の様子も映った)に加え、けんちゃんはもうひとつギフトをくれた。

「世間話をするだけでも良いことあるから!」という漠然とした理由を以て、お姉さまを紹介してくれたのだった。

けんちゃんのお姉さまは、超絶美人だった。

LINEのプロフ画を見て、卒倒するかとおもった。

え、なに。こんなきれいなお姉さまいたの、あなた。

 

お姉さまは、とてもフランクだった。

どこの誰とも知れない小娘と、次週、会うことを約束してくれたのだった。

 

出会いは、変化のきっかけになる。

お姉さまとのお話の中で何かひらめきがあるとよいなと思う。

 

そういえば昨日、『乱読のセレンディピティ』という本を読んだ。

セレンディピティというのは、思いがけないことを発見する能力のことだ。

Wikipediaには、”素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること”と書かれている。

本書に、以下のような記述があった。

どうも、人間は、少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより、軽い気持ちですることの方が、うまく行くことがある。なによりおもしろい。

このおもしろさというのが、化学的反応である。真剣に立ち向かっていくのが、物理的であるのと対照的であるといってよい。

化学的なことは、失敗が多い。しかし、その失敗の中に新しいことがひそんでいることがあって、それがセレンディピティにつながることがある。昔から、ケガの功名、というが、セレンディピティとは失敗、間違いの功名である。

『乱読のセレンディピティ外山滋比古著(扶桑社文庫)p98-99

いままで、真面目が過ぎたようである。

おもしろさで動いてみるのも、アリかもしれない。

そう思えた国際電話だった。