マッチングアプリふたたび
暇である。
本も読み飽きた。この5日間で、5冊読破した。
それぞれ異なるジャンルのものを読んだが、それでも読み続けるというのは飽きる。
頭の中が、肥満である。
身体も肥満なのに、これはいけない。
軽く散歩しようと思い立ち、玄関を開けた瞬間、照り付ける日差しを受けて、とら子は静かに扉を閉じた。
この日差しの中歩くのは、危険だ。自殺行為だ。
昨日おばあちゃんが言っていた。
「とら子ちゃん、熱中症には気をつけなさい」と。
とら子は、おばあちゃんの言いつけはしっかり守るよい子なのである。
やることがなくなった。
床に寝ころび、天井を見上げ、ふと「もっかいマッチングアプリやってみよ」と思い立つ。
先日、シェアハウスのリビングで、宇田さんと小桑さんに言われたことを思い出したのだ。
現在、コロナ禍によって、リアルな出会いの場に足をはこびづらい状況にある。
アプリには変わった人が多いが、まともな人が、上述の理由によって、アプリに流れてきている可能性がある。
まして、とら子の年代ならなおさらアプリ利用へのハードルは低いはずだから、その可能性は高くなる。
よって、とら子は積極的にアプリを活用すべきである。がんばれ。
なるほど隙のない理論である。さすが、とら子が尊敬するお二人だ。
この理論を聞いたのは、僧侶との一件があった直後のことだったため、その当時はそれほど感銘をうけなかったが、じわじわきた。今、きた。
「pairs」「with」を制覇した(挫折したともいう)とら子が次に目をつけたのは、「Omiai」というアプリだ。
aiの下にこれ見よがしにアンダーラインが引いてあるのが小賢しい。
どうでもよいが、なぜマッチングアプリは英語表記なのだろうか。
早速登録をしたが、まぁその他のアプリと大差はない。
生年月日を入力し、居住地や職業など、指定された項目を埋めていく。
あとは写真を登録して、プロフィールの自由記述だ。
4年ほど前の、痩せていた時の写真を使うズルいとら子である。
これでマッチングしたとしても、会うことはないだろう。
2時間ばかり、いいねを処理したり、「おすすめ」に出てくる人を眺めたりして過ごしたが、日が暮れた窓の外をみて、謎の寂寥感が込み上げてきた。
いったい私は何をしているのでせうか。
前回の反省を生かし、自分から「いいね」を送ろうと思ったが、できなかった。
顔写真とわずかなプロフィール。これで相手の何を推し量れるというのだろう。
仮に自分から送ったいいねでマッチングして、違和感を覚えたとき、自分はその責任がとれるのか。いいねとは、「付き合ってもいい」なのか、「結婚してもいい」なのか。
そもそもなにが「いいね」なのか。
このように逡巡しているうちに、日が暮れた。無駄な一日と相成った。
そうしてふと考える。自分の理想の相手とは何だろうかと。
6畳の自室をぐるぐる歩き回り、出した結論は「パン職人のオーストリア男子」だった。笑いたければ笑うが良い。
昨年の今頃は、オーストリアに居た。
ウィーンの街並み、ザルツブルクの自然、人々のやさしさとおおらかさに、心を救われたのを思い出す。
そして浅はかにも、「オーストリア移住したい」と思ったのだった。
願わくばウィーン郊外の田舎に居を構えて、パンを焼き、紅茶を味わい、猫を飼い、花の世話して、死にたい。骨は実家の納骨堂にお願いしたいけど。
狙いが定まった。オーストリア男子である。
Omiaiの国籍検索機能を活用し、オーストリア人を調べたが、誰一人ヒットしなかった。
きっとこのアプリも、来週くらいには退会しているだろう。
こじらせ三十路にまっしぐらの予感。誰か私を止めてくれませんか。