吉野山と修験道
朝五時に目が覚め、「吉野山に登ろう」と思い立ち、急遽奈良へ。
はじまりはいつもこんな感じ。
どうも、とら子です。
ここ数か月、休日の選択肢はというと、
1.登山(ハイキング)
2.整体
3.読書@ロイヤルホスト
以上である。
色気も何もない、28歳バツイチ女の休日。
とら子にしてみれば、その中の選択肢1を選んだにすぎない休日だった。
さて、奈良の吉野といえば、桜の名所である。
それは同時に、桜の名所でしかないとも言え、休日にも関わらず、駅周辺は閑散としていた。
朝8時に吉野駅に到着するとら子サイドに問題があると言われればそれまでだが、山頂に向かうケーブルカーやバスは、動いていなかった。
必然的に、徒歩で山頂を目指す形になる。
道を歩けば、山頂につくだろうと高を括って、文明の利器(Googleマップ)に頼らなかったのが運の尽きだったと、この1時間後思い知らされることになる。
うだるような暑さは去り、そよ風に秋を感じる気候。
太陽もまだ低い位置にあり、川のせせらぎが心地よい。
針葉樹の隙間から見える木漏れ日が、幻想的かつ荘厳な雰囲気を醸し出していた。
山のふもとから、本格的な山道に入る手前に、小さな民家があった。
ふと、その家の庭から「ワン!ワン!」と、元気な声が聞こえ、一匹の柴犬がしっぽをふりながらこちらへ向かってくる。
さすがは田舎。放し飼いである。
異様に人懐っこいその柴犬は、とら子にまとわりついてきた。
犬を撫でたのは久しぶりだったが、かわいくて癒された。
気をよくして、山道をずんずん進むとら子。
だんだんと道が狭くなり、傾斜が急になってきていることに、違和感を覚えつつも、久しぶりに自然の中を歩いてハイになっているため、「いけるって!いけるって!」のノリで進んでいく。
整えられていたはずの道が、徐々に岩へと変わり、「あれ?道というより、これ枯れた川じゃね?」と気づいたころには、時すでにお寿司。
流されてきたであろう丸太が道をふさぎ、それを超えてなお進むも、この夏の間に生い茂ったであろう草に通せんぼされ、歩みを止めた。
経験したことがあるだろうか。
道に迷ってGoogleマップを開いた時、自分の現在地が道路上にない絶望感を。
道路から結構逸れた山の中に、現在地を示すブルーの光が点滅している。
よいか諸君。
道の上にいないということは、道に出る道が分からないということである。
絶望であった。
30秒くらい立ちすくんで、とりあえずお不動様の真言を唱えるとら子。
さっきまで、「自然ってすばらしい」などと、山ガール気分を満喫していたはずなのに、途端に恐怖が襲い掛かってきた。
引き返せばいいじゃない、と思ったそこのあなた。
引き返すには、歩みを進めすぎている、というパターンがあることを知っておいてほしい。
ここに至るまでに、幾多の険しい坂を上り、倒木を乗り超え、昆虫に遭遇するたび戦慄してきたのだ。それをもう一度、この疲れ切った身体で経験するだと?
冗談じゃない。
そしてとら子は、鬱蒼とした山道を引き返すことをあきらめ、やや開けていて明るい(ように見えた)道を選んだ。
最初こそ広かった道は、歩みを進めるごとに、だんだん狭くなってきて、獣道のようになってきた。
背の高い草が道の両脇に出現し始め、「あっ、また道間違えたかも」と思ったその時、目の前にシカが現れた。
もう一度言う。シカがあらわれた。
野生のシカである。
奈良公園で見るシカとは、出会いの重みが違う。
人間にとってアウェーな、自然という空間における、野生動物との遭遇。これはもはや恐怖でしかない。
しかもそのシカは、「ケーン!」と今までに聞いたことのないような声で鳴いた。
とら子は泣いた。
ここで死ぬと思った。
でも、「シカに襲われて死ぬ」ではなく、「シカを狩りに来た猟師に撃たれて死ぬ」という、やや遠回りな死因を思い浮かべた。
今になって思えば、驚いたのはシカのほうであったろう。
のんびり過ごしていたら、不動明王の真言を唱えながら歩く人間の女が出現したのである。不気味なことこの上ない。そりゃあケーンとも鳴く。
たぶん、「なんかヤバいやつおるで!!」という意味だったに違いない。
その声に触発された群れが、ドドドッと大地を蹴って逃げていった。
ほんとに腰を抜かしたが、獣のにおいや、大地の躍動を体感できたのは、良い経験だったかもしれない。
半べそをかきながら、草をかき分け、カナブンに衝突され、トンボに煽られ、落ちたら骨折するだろう崖道を切り抜け、ようやく人工物(橋)が見えたときは、救われた心地がした。
その後、金峯山寺に参拝し、道中を守ってくれたのかどうなのか、よくわからないが、蔵王権現さまに、南無南無と手を合わせたのであった。
金峯山寺の説明書きを見るに、ここは修験道の総本山であるという。
かの役行者が、この金峰山で修業をして金剛蔵王権現を祈りだされた。
そして今もなお、金峰山は、修験道の中心的道場として、多くの修行者が入山修行をしているというのである。
たしかに、修業だった。
貴船・鞍馬や、伏見稲荷のやさしいハイキングとは、険しさが違った。
果たして、へろへろになって帰宅し、爆睡したが、なぜか翌朝は心地よい筋肉痛と、爽快感で目が覚めたのであった。
良い休日・・・だったような気がする。
完