懺 悔 記

虎になりたくない、三十路目前女子のブログ。

小桑さんと滋賀ドライブ

夏休みに入った。

予定のない長期休暇ほど、人の心を追い詰めるものはない。

 

仕事に行っていたときは、あれだけ休みたい休みたいと念仏のように唱えていたのに、休みが来たらこの調子である。

なんて我儘なのだろうかと自省していたところ、似たような人がいた。小桑さんである。

 

「とりあえず、緑が見たい」という点において意気投合した我々は、急遽ドライブに行くことにした。

「とりあえず、明日の朝7時半にリビング集合ね」と、行先も決めずに就寝した前日。

「とりあえず、朝ご飯のパン買いに行こう」とゴッホに行く当日朝。

「とりあえず、車に乗ろう」と、パンを抱え乗車したのち、「こんなに行先が決まらないとは思わなかった」と焦りだす。

無計画の極みである。

そして「とりあえず、滋賀行こうか!」と、計画性のないドライブが幕を開けた。

 

滋賀までの道中、『聖なるズー』という本についての感想を述べあった。

ズーフィリアという、動物を性の対象とする人々と作者の交流を描いた本作は、そのセンセーショナルな題材や、開高健賞を受賞したことで、最近話題となっていた。

しかし、過激な題材とは裏腹に、書かれているのは「性愛の対象とするパートナーとどのように関係を築きますか?」という、すべての人間に対する問いかけであった。

 

対等な関係とは何か、愛とは何か、高速を飛ばしながら我々は語り合った。

話はそのうち、日本のAV業界に対する怒りに変わり、元カレの話に変わる。

10年近く付き合っていた元カレが、別れたあとすぐにほかの人と付き合ったことに対して、小桑さんはかなりのトラウマを抱えていた。

小桑さんは「もうめっちゃ嫌や」「かなしいわ」と、悲鳴に近い声で、元カレとの思い出を語る。彼女が感情の波にのまれているとき、語彙力が著しく低下することが分かるようになってきた。

 

かくして近江八幡に到着した我々であったが、元カレとの思い出話で情緒不安定となった小桑さんをなだめるべく、とりあえず、たばこタイムである。

一服して落ち着いた小桑さんとともに観光先を探したところ、クラブハリエの「ラコリーナ近江八幡」なる施設が、この付近で有名と知り、車を走らせた。

が、なんとも微妙な施設であった。緑に包まれた外観が有名なようだが、内部の庭には、「なにこれ雑草?」みたいな草が、生い茂っている。手入れされた気配が微塵もない。

クラブハリエといえば、バウムクーヘン。とりあえずバウムクーヘンをひと切れ購入し、コロナ対策のため、屋外の暑いベンチで、もそもそ食す。ただでさえ甘い生地を、砂糖でコーティングしたそれは、異様に甘かった。

「楽しみ方がわからない」という苦情とともに施設を後にした我々は、八幡山へ向かう。

 

八幡山は、市街地のすぐ北側にある標高271.9mの山で、山頂にはかの豊臣秀次が築いた城跡がある。ロープウェイで山頂まで登り、約1時間の別行動をとった。

山頂に黒猫を見つけ、テンション爆上げでもふもふするとら子。

小桑さんは、木陰のベンチで読書を始めたが、すぐに集中力が切れて、立ち上がってみたり、スマホヘアアイロンを調べたりしていた。

この旅程は省略してもよかったかもしれない。

そもそも、山頂でやらなくてもよいことばかりである。

 

さて、昼食を求めて、琵琶湖周辺に車を走らせる。

人生で初めて見た琵琶湖。それはとても広大で、きらきらと水面が輝いていた。

とら子は何度も、「これは海や!」と主張した。小桑さんはその都度、「湖やよ」と訂正した。

琵琶湖のほとりにある有名なカフェは、観光客でごった返しており、並んでいる間にコロナに感染しそうだったため、断念。

その後、30分近くさまよい続け、空腹で小桑さんが泣き出しそうになったころ、ようやく一軒のカフェを見つけ、食事にありつけた。

 

腹がふくれた後は、琵琶湖のほとりに立つ寺を訪れた。なんでも浮御堂が有名らしい。

浮御堂に立って琵琶湖を見渡す。

最初こそ、その景観に感動したものの、強風にあおられた髪が顔を激しく叩き、感動に水を差された形となる。心が穏やかになるのに比例して、暴れる髪。

アンビバレントな感情を抱きながら、我々は浮御堂を後にした。

 

その後、プチ渋滞に巻き込まれながら、帰路につく。

車内は、次の海外旅行はどこ行きたい?というお題で盛り上がった。

 

帰宅後、リビングにいた志村さんに「ドライブどうやった?」と聞かれるも、うまく説明できない二人。

 

無計画な旅は、旅の思い出を人に伝えづらくなるようである。

マッチングアプリ退会のご報告

暑い。暑すぎる。やっと梅雨が明けたと思ったら、酷暑である。
最近の天気は、加減というものを知らない。

 

突然だが、昨日マッチングアプリを退会した。

利用報告もしないうちの、突然の退会報告。お許しいただきたい。


さて、話は、2週間前にさかのぼる。


とら子が住んでいるシェアハウスは、木造一戸建てで、 現在6名の住人が暮らしている。
玄関から一つ扉を隔てて、 24畳の広さを誇るLDKがあるのだが、 ここで平日の夜や休日の朝など、 偶然居合わせたメンバーで歓談することがある。
ある日の夜半、とら子はリビングで小桑さんと居合わせた。
梅雨明け前のその日も、雨は降り続いており、 日照時間が少なかった。
要するに、二人とも情緒不安定だった。


本の話、転職の話、恋愛の話、これからの話・・・
内容についてはおぼろげな記憶しか残っていないが、 2時間近く話を続けていたような気がする。
0時を回ったころ、良い具合に眠くなり、各々「じゃ、また」 と居室に引き上げていった。
そして翌朝、ふっと思い出したのが、「私、 過去には後悔してないんよ」という小桑さんの一言だった。


愛に生きる小桑さんは、強い結婚願望がありながらも、 現在フリーだ。
しかし、今に至るまで、お見合いからコンパから、 運命の人と出会う努力をたくさんしてきたという。
「その時その時、一生懸命動いてたからね。だから、 後悔はしてないんよ。」
「多分、過去に戻れても同じことすると思う。」
「でもね、とらちゃん。未来は選べるんよ!」
夜中の妙なテンションと、情緒不安定が相まって、 小桑さんは名言を連発した。


とら子は思った。深い、と。


そしてさらに思った。「私もどげんかせんといかん。」


しばし思案したのち、 とりあえずマッチングアプリに登録してみようという結論となった 。
実はとら子、 以前もマッチングアプリに登録していたことはあるのだが、 折しも離婚直後の精神不安定期であった。
マッチング後、出会いに漕ぎつけはしたが、 その不安定ぶりを如何なく発揮し、 お互い気まずくなってフェードアウトするという経験がある。
でも今の、小桑さんの言葉に感化されたとら子なら、 出会いに前向きになれるかもしれないよね!


新型コロナの蔓延状況も不安なため、 三密になりそうな街コン系のイベントは避けたい。
お見合いはなんかちょっとハードル高いし、 そもそも仲人がいない。
結婚相談所は、行くこと自体が大きな傷になりそうなので、 時期尚早であると判断する。


マッチングアプリの利用は、消去法で考えた結果、 辿りつくべきして辿りついた結論であった。


さて、世の中には多様なマッチングアプリが存在している。 よく電車等の広告で見かける「Pairs」を筆頭に、「 Omiai」「タップル誕生」といったサービスがあるという。
いずれも男女の出会いを目的とし、写真やプロフィールを見て、 まずは気になる異性に「いいね」で好意を表明する。 相手がそれに応じることで、マッチング成立となり、 メッセージのやり取りが可能となる。
以前、Pairsに登録したことがあったので、 今回はメンタリストDaiGoが監修・プロデュースしている「 With」なるものに登録してみることとした。
「With」のウリは、心理学に基づいた性格診断を参考に、自分と相性の良い相手を探せることだ。
これだけ聞くと、なんだかすごい感じがするが、 使用されている性格分析の指標はBIG5だそうだ。 とら子は性格特性論があまり好きではない。
性格分類には2通りあって、 以下のような違いがある。
①特性論:ある性格特性をどの程度持っているかという組み合わせで、人の性格をとらえようとする
②類型論:人のタイプをいくつかに分類し、 その人がどのタイプに当てはまるか見定める


特性論は、人を観察・評価するものさし(BIG5だと「 外向性」「情緒安定性」「勤勉性」「協調性」「開放性」) を示してくれるところは価値があると思う。
表面的な自己理解・他者理解は進むかもしれない。初対面の相手の傾向をとりあえず知るにはちょうど良い。だが、薄っぺらな感じがする。「うん、まぁ、当たってるけど、 知ってた」てなもんである。


この漠然とした印象を振り払うため、 先ほど簡易診断を受けてみたが、 感想は特に変わらずだった。

なお、「情緒安定性」 が著しく低いという結果が出たことも、あわせて報告しておく。


さて、中途半端な知識で、BIG5への不信感を述べたが、 結局とら子は「心理学に基づいているなら、なんか良さそう」と、 大衆と全く同じ感想をもってして「With」に入会したのであった。


「With」では、いろいろな心理?テストを受けることができる。 そのテストを受けると、 コミュニケーションの取り方や、 恋人との関わり方の傾向が診断され、 結果がプロフィールに掲載される。 診断結果を参考にしながら、異性との相性の良し悪しを検討することができるといった寸法だ。
確かに心理タイプを知ることは、 相性をはかるある程度の参考にはなるかもしれないが、 そもそも興味関心に違いがあると、会話が始まらない。
しかし、「With」には先述の欠点をカバーするための、 カード選択システムがある。
例えば「犬が好き」「旅行が好き」や「 医療関係の仕事をしてます」「黒髪が好き/自分が黒髪」など、 自身の趣味や属性を選ぶことで、興味関心を表明できるのだ。
とら子は迷わず「ぽっちゃり好き/自分がぽっちゃり」 を選択した。


およそ2週間程度、「With」のお世話になった。 診断を受けたり、 カードを選んだりすることは楽しかった。
謎のプライドから、自分からいいねは一切押さなかった。 こういうところが、マジ山月記


そんな山月記女でも、マッチングすることはする。
しかし、3往復くらいのやりとりで違和感を覚えはじめ、 5往復するころには返信する気をなくす。果たして、 フェードアウトである。マッチングアプリでの出会いに、 全く乗り気でない自分に気づく。
そのうち、「いいね」 を処理するためだけにアプリを起動するようになり、 それすらめんどくさくなって、「私のことを知らぬくせに何が「 いいね」だ!」と理不尽な怒りを覚えるまで、 さほど時間はかからなかった。 絶望的にアプリに向かない人種なのであった。

 

唯一ライン交換まで行ったのは、僧侶だった。とある宗派の総本山に勤めているということで、にわかに色めき立ったとら子だったが、おそらく彼は病んでいた。実家を継がねばならないプレッシャーに押し潰されていたようだった。

やりとりを進めるうちに、病んでる人独特の執心を文面から感じとり、久々に背筋が粟立つ恐怖を覚えたため、丁重にお断り申し上げた。

彼の尊厳のために詳細は記さない。

御仏様の救いがあることを祈念する。

 

元来、面と向かって断ることに慣れていないとら子である。この一件で全精力を使い果たした。

きちんと断るという機会を与えてくれた僧侶に感謝をしながら、とら子は静かにアプリを退会した。

女三人高野山

「ドライブ行かへん?」 というシェアメイトの誘いに二つ返事で乗っかり、 唐突に高野山に赴いた昨日。

 
メンバーは、和歌山出身だが喋りは純大阪人の小桑さん(仮名)、 鹿児島出身で動物大好き宇田さん(仮名)、バツイチとら子( 仮名)である。

 

朝、ゴッホでパンを買い、 駅前でレンタカーを借りていざ高野山へ!

つのパンが売り切れで、 とら子のテンションが地味に下がったことはひみつである。


高野山の気温は26度。 晴れとも曇りとも言い難い中途半端な天候。 車内の微妙なワクワク感。何もかもちょうど良かった。


完全ノープランであったため、高野山に到着後、 とりあえずメインの金剛峯寺に行くことに。
そしてなぜか、拝観もしないうちに、 自然な流れで現地解散となる。
帰宅後、シェアハウスのお姉さま的存在、 志村さんに上記行動を報告すると、「 仲がいいんだか悪いんだかわからない」 というご指摘をいただいた。
しかし我々は、何の疑いもなく「じゃ」と三者三様に、 全く別の道を行ったのである。
集団行動ができないわけではないが、このマイペース加減が、 結婚に恵まれない遠因なのかもしれない。


昼食も別々にとる勢いだったが、さすがにそこまではということで、 昼過ぎに金剛峯寺に集合。

集合場所一番乗りの小桑さんは、 あろうことかベンチ1台を陣取って、 あおむけに寝そべりながら雑誌を読んでいた。
宇田さんもとら子も、すぐに「うわぁ小桑さんだ」 と認識したため、集合に迷うことはなかった。
以前、小桑さんは「私、どこにいても何故かよく見つかるんよ!」 と言っていたが、それもそうだろう。
行動がやや異質で、基本的に、 景色に溶け込むことがない人なのであった。


さて、リーズナブルに精進料理を味わえると評判の店に並び、 昼食にありつく。
待ち時間が長いため、メニューに迷う3人。「これにする」 と宣言した次の瞬間に「これもいいな」と移り気する、 メニュー選択時あるあるを披露した以外に特筆するほどのこともなかったため、省略する。
精進料理はそこそこおいしかったが、感想は宇田さんの「 どのおかずがメインかわからないね」というコメントに集約される。 察していただきたい。


腹が膨れたら、散歩である。というわけで、奥の院へ向かった。
高野山を訪れたことがある人はお分かりだろうが、 奥の院へ向かう道は、お墓だらけである。
満腹で墓地を歩くという、 今まで経験したことのない散歩をした。
途中、「しろありよ やすらかにねむれ」という 社団法人日本しろあり対策協会による斬新な慰霊碑にとら子がツボり、小桑さんが「これからも駆除するのに?」 と素朴な疑問をぶつけるという一幕がありながら、 ようやく奥の院へ到着。
山を背にした御廟。ここで空海――弘法大師は、 今も瞑想を続けているのである。
・・・そんなことはないと分かってはいるが、聖地独特の空気、 人々の信仰心を肌に感じ、我々は神妙に手を合わせたのであった。


帰り道、川を眺めていると、小さな魚たちが流れに逆らって、 自分の体の5倍はある落水を登ろうとしていた。
人間にとってそれは、川の段差により生じた小さな落水だが、 彼らにとっては大きな滝。流れは強く、何度も押し戻されている。 それでも、必死に登ろうと挑戦しているのである。
「がんばれ!」と応援する我々。しかし、 魚たちは落水を超えることができない。
「あぁ、この滝の上には穏やかな流れの川があるのに・・・」 小桑さんがつぶやく。
その一言で、目の前の小魚と、 もがき続けているのに一向にオアシスにたどり着けない自分たちとが完全に重なり、無言で帰路についた。
人間が自然から学ぶことは多い。


かくして、ドライブ小旅行に味をしめた我々は、 カーシェアリングサービスなるものに興味を示し始めた。
「夜景とか見に行こうよ!」「いいですねぇ!」など、 夢は尽きない。
普通なら彼氏とすることであるが、どうか今は、 そのことを指摘しないでいただきたい。


平穏な日常がはやく戻ることを祈るばかりである。

南無大師遍照金剛。

アイキャンディーと食欲

昨晩は非常に楽しかった。
大学時代からの親友を、無理やりロイヤルホストに連行した挙句、「半分こ」を言い訳に、パンケーキやらパフェやらを注文しまくったのだ。
しゃべることに夢中になると箸が止まる親友は、「半分こ」と言いながら、その実態が6:4であることに気づいていない。してやったりである。

 

そして今朝体重をはかったところ、案の定、増量していた。天罰だった。

 

さて、8月である。あっという間に8月である。

今年に入って、何も成し遂げていないうちに、もう8月になった。

何かを成し遂げた年なんてないけど。

 

さて、その8月は、最悪なお知らせとともに、幕を開ける。

 

アイキャンディーに子どもがいたのである。

賢く、かつ、論理的に思考できる知的生命体は、すぐに分かった。

 

子どもがいる=パートナーがいる

 

その事実を知った時の反応は以下の通りだ。

 

「えぇ~・・・」

 

その後、気持ちがこもっていない「ウケる~」が続く。

まぁこの程度である。短い夢だった。でもいいの、アイキャンディーだから。

 

 

それにしても、せつない月初だ。

 

 

失恋のショックで食事が喉を通らなくなる現象が起これば減量効果が見込めるのではと、無理やりポジティブ思考に転換したが、慣れない思考回路を使ったことによる脳疲労で、腹が減った。

何をやってもダメな時はダメなのだった。

書くこと読むこと

ものを書くというのは、知的生命体だけに許された、きわめて崇高な作業である。

 


さて、この出だしからわかるように、例によって、情緒不安定なままである。
なぜ人は、精神が安定しないときに限って壮大なテーマを扱おうとするのだろうか。
理由は単純、現実逃避したいからである。
ロイヤルホストのパンケーキにいたく執心し、「 今日は頑張ったから」などという具体性のない理由を以て毎晩のように食していたところ、 1kg太った。
当然の帰結であるが、この現実を受け入れたくないがゆえに逃避する。
しばしお付き合いいただきたい。


さて、ものを書くという作業について。
ものを書こうとするとき、人はまず、何かしらのテーマを見つける。
次に、そのテーマについて、自分は何を感じたか、感覚と言葉を結び付ける。
さらに、そう感じるに至った理由や自身の意見を論理的に組み立て、これまた言葉に落とし込む。
ふわふわした情動を言葉でとらえて、自身のコントロール下に置く作業が、ものを書くということだ。
したがって、ものを書く人は湯婆婆である。


上記の文章は、「したがって」以降に論理の飛躍がある。 良くない使用例だ。


さて、何が言いたいかというと、下記のとおりである。
相手の名前を知り、 それを奪って湯屋に縛り付けコントロールする湯婆婆って、 ものを書く人と共通するところあるんじゃない?


名前を知るのは、対象の本質を掴むことに似ている。名前を知る(=対象の本質を知る)ことで自分のコントロール下に置くという古代の呪術的発想も、あながち間違いでもないような気がしてくる。
人を支配するのはいただけないが、自分の感情くらいはコントロールしておかないと、知的生命体として情けない。
感情に主導権を握られた結果、盗んだバイクで走り出す羽目になるのである。


ものを書くには語彙がいる。
語彙は、会話や読書によってインプットされ、 書くことによってアウトプットされる。
しかし今、この両方の機会が失われていないだろうか。


インプットの機会は、テレビやYouTubeにとって代わられた。
これらは延々と映像・音声を流し続けるため、情報は一方通行で、視聴者は受動的にならざる負えない。
アウトプットの機会も、奪われつつある。
ネットが大衆に普及し始めたころは、個人ブログが流行っていた。 かくいうとら子も、友人と一緒にほーむぺぇじなるものを開設し、とりとめのない駄文を垂れ流していたものである。
ハリウッドセレブに憧れていたとら子は、雑誌で聞きかじった根も葉もない情報を編纂して日記に掲載するという、三流ゴシップ記者まがいのことをして自己満足していた。セレブに憧れていたのか記者に憧れていたのかよくわからない。


さて、時代は流れ、今度はFacebookなるものが流行り出した。 これもまだ日記のように、長文を掲載することができるコンテンツであったため、友人たちの近況報告を読む楽しみがあった。
Facebookと同時期に人気を博したのがTwitterだ。 140字という短文で、思ったことをタイムリーに「つぶやく」 コンテンツである。
文章で表現しようとするだけ、まだアリの部類かもしれないが、「 つぶやき」は垂れ流しに等しい。そこに起承転結はないのである。 Twitterの登場は我々から、文法というか、話を構成する力を奪っていったような気もする。

しまいに出てきたのはInstagram である。もう、字がいらないのである。たった1枚の写真をもってして主張するのである。

写真が悪いと言っているわけではない。このようなSNSが主流になりすぎてしまうことで、読む機会や書く機会が失われることを危惧しているのだ。

また、上記SNSの変遷は、人の集中力をも奪ってきた。文章を読むことと、写真をパッと見ることは全く違う行為だし、そこに対話や想像が存在しない。

 

着地点を見失った。

 

要するに何が言いたいかというと、本を読もうぜ、文章書こうぜ。とら子情緒不安定だぜ。

と、いうことのようだ。

 

アイキャンディーに会いたい。

思いは募る一方である。

感想『彼女は安楽死を選んだ』

神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に対する嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件。
女性は、昨年6月に報道されたNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』を観て、死の選択への思いを強めていったと、女性の主治医が明かした。

 


彼女は安楽死を選んだ

 

私もこの番組を見た。
「多系統萎縮症」という難病を発症した小島ミナさんという女性が、スイスにわたり、自殺幇助団体の手を借りて、その生涯を終えるという内容だった。
あまり先入観を持たずに視聴したにも関わらず、番組の構成に違和感をおぼえたことを記憶している。

番組を見た後に感じたのは、「ほんとうにこれでよかったのか」というやりきれなさだった。あまりにもあっけなかった。

安楽死を選んだミナさんの意思はもちろん尊重するが、番組制作側が、その選択をするに至った彼女の苦悩を表面的にしか理解できていなかったように思う。
もしくは、理解していたけれども、プライバシー等の問題で、放送することができなかったか…。

いずれにせよ、選択に至るまでの苦悩を描ききれないのであれば、安楽死問題についての番組を作る意義がなくなる。
安楽死問題を語るとき、もっとも目を向けるべきは、その決断に至る前までの本人や周囲の葛藤ではないだろうか。決断した後だけに目を向けると、「How to 安楽死」番組になる。
Howの以前にある、Whyを語らなければ、安楽死という決断そのものが軽く見えてしまうし、安楽死を選べば救われるのではないかという誤解を与えてしまう。

安楽死は、その行為だけを見ると、計画的自殺と言い換えられると思うが、その根底にあるのは、その人が「どう生きたいか」という問題である。
安楽死を選ぶとき、「○○だから死にたい」と、死ぬ理由づけをするが、裏を返せば、「○○でさえなければ生きたい」ということである。

安楽死を選ぶ人は、徹底的に「生きる」ことを考えている人ではないかと思う。
しかし、この番組は「死」の側面を強調しすぎていて、生きることに向き合ったであろうミナさんとその家族を描ききれていなかった。
少なくとも私は、ミナさんに対して、生と向き合った末に安楽死を選んだ人というより、死に急いでいる人という印象を強く受けてしまった。


人生の最後、その1分1秒が、ミナさんにとって貴重なものであっただろう。
にもかかわらず、テレビの取材を受け入れたミナさんとその家族。
最後の瞬間まで、撮影クルーが同席していて、十分なお別れができたのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。
「ありがとね」「わたし、しあわせだったよ」というミナさんの最後の言葉は、はっきり再生できるほど記憶に残っている。

 

しかし、この番組が、これだけ貴重な機会を命懸けで提供してくれたミナさんに捧げるに足りるか?懐疑的である。
そもそも、これほど繊細で複合的問題を孕んでいるテーマを、1時間内におさめようとしたことに無理があると思う。

製作中に、その限界に気づいてほしかった。

いろいろと、考えさせられることが多い番組ではあった。
たとえば、スイス自殺幇助団体の医師が「もしミナさんに移動の困難がなければ(日本という遠方に住んでいなければ)、このタイミングでの安楽死は勧めなかった」と言ったシーン。
ミナさんは、病状が進行し、スイスに渡航できなくなることを非常に恐れていた。もし日本国内に同様の施設があり、安楽死制度が認可されていた場合、ミナさんはもう少し穏やかに、余生を生きることができたのではないだろうか。
また、日本では「安楽死」が認められていないため、遺体を持ち帰れないことについて。ミナさんの遺体は、現地で火葬され、遺骨はスイスの川に撒かれた。無言の帰国すら許されないのである。お骨になった後でも故郷に戻れないなど、私には耐えられない。

私は安楽死制度について、賛成反対いずれの立場も取りかねている。
安楽死制度という保険があることによって、生をまっとうできる人もいるだろう。その一方で、安楽死制度の「耐え難い苦痛」の適用範囲の拡大―—いわゆるすべり坂問題や、優性思想につながることへの懸念、周囲の意見に左右されやすい性質を持った日本人が主体的に安楽死を選べるのかというそもそも論があることもわかる。
結局その答えは、自分が当事者になったときにしかつかみ取れないだろうし、正解はない。自分が自分の選択に納得がいくかどうかがすべてだから、他者がどうこう評価するものでもない。
当事者になったとき、自分を取り巻く人間関係も、その選択に大いに影響を与えるはずである。

京都の事件に話を戻す。
主治医でもない医師が、あろうことか報酬をもらって、依頼者の自殺幇助をしたことで、日本の安楽死についての議論がますます進まなくなるだろうなと思う。
こんなもん、安楽死以前の問題である。そこそこの報酬をもらっている時点で、逮捕された医師に大した信念はないと思うけど。


さて、深く当事者に迫ったNHKの作品でお勧めしたいのが『ある少女の選択~18歳いのちのメール~』だ。


「ある少女の選択~18歳“いのち”のメール~」 2011 07 22 2

 

この子の決断と、苦しみの中でも両親を思いやるやさしさ、

私一生かけても、こうはなれないなと思った。

 

 

・・・一昨日の日記との落差よ。

そうです、情緒不安定です。

つのパンと三日坊主

早くも書くことがない。

三日坊主にすらなれないまま飽きるとは思わなかった。

 

一昨日、実はひそかに「毎日更新!」という目標を掲げていたが、なぜあえて明言しなかったかというと、こうなることが分かっていたからである。

 

自分で掲げた目標を守れなかったとき、私の中ではたいてい以下の反応が起こる。

まずは、目標を守れなかった己を嫌悪する。次に、過去のありとあらゆる悪行や恥ずかしい出来事を思い出して塞ぎ込む。そして未来に絶望し、訳の分からないスピリチュアル理論に逃げてひとしきり現実逃避したのち、最後は反出生主義にたどり着く。

表面上何も変わっていないのに気力だけを浪費するという、まるで生産性のない思考回路だ。この方法で何かが解決した例がない。

でも今日はこうはならない。なぜなら目標を立てていないからである。

 

・・・さて。

こうやって何かを書いていれば、話のネタでもひらめくかと思ったが、何も浮かんでこない。

だいたい、世のブロガーは、毎日飽きもせず何を書いているのか。

 

日常の些細なことをいかに面白く書くかが問われているのかもしれない。

今日の一日を振り返ってみよう。

 

パン屋に行くもお目当てのパンが売り切れで落ち込む

 

仕方なく買ったカレーパンが予想外に美味しくて得した気分になる

 

明日の朝こそお目当てのパンを買おうと意気込んでいる

売り切れは困るので、何なら早起きしようと考えている

 

 

こういう一日を、「無駄な一日」という。

なんでこんなにパンのことばかり考えているのか。

確かに今日はパンのことを考える時間が多かったなぁと思ったが、パンのことしか考えていなかった。

なぜか。

 

近所に「ゴッホ」というパン屋がある。

店内に備え付けてある立派な石窯でパンを焼いているのだが、ここのパンのまぁ美味しいこと。

正直、総菜系のパンははずれが多い。菓子パンも、そんなにである。

しかし、主食のパンとなると話は違ってくる。

 

「つのパン」を知っているだろうか。

 

「つのパン」は、ゴッホの名物中の名物である。

その名の通り、角(つの)のような形をしている。

角のような形が分からない?

じゃあ、クレセントロールの形状を想像してほしい。あんな感じだ。

クレセントロールを知らない人は、クレセントという英単語から想像してほしい。

クレセントすら分からない人は、自分の無知を恥じながら英和辞典を引きなさい。

 

さて、「つのパン」である。

こんがりと焼かれ、乾いた表面に小麦がかすかに残る「つのパン」。

それは固く、トングで強く挟んでも、容易に形を変えない。

万が一、トングでの争奪戦が発生した場合にも耐えうるよう設計されている。

しかし、その硬派な見た目とは裏腹に、中身は柔らかなのである。

ただ柔らかなだけではない。

幾重にも巻かれた、もっちり濃厚な生地が、詰まっているのである。

その弾力といったら、まるで小麦界の餅である。

 

想像してほしい。

 

「つのパン」をかじったとき、鼻孔にふわりと広がる、温かい小麦の香りを。

パリッとした表皮を崩した後にたどり着く、もちもちの生地・・・

幾重にも巻かれた真っ白な生地は、餅のように伸びながら、くるくるとほどけてゆく。

そして、いざ「つのパン」をしっかり噛みしめると、表皮についた岩塩が、生地の甘みを引き立てる。柔らかで弾力のある生地と、薄くパリッとした皮が口の中で一体化するころには、あなたはもう「つのパン」の虜である。

 

そう、この「つのパン」こそが、今朝買おうとしていたお目当てのパンであり、一日を費やして思い続け、明日リベンジを果たそうとしているパンなのである。

 

「つのパン」に愛情を持っていると思っていたが、書いているうちにこれは執念と呼ぶほうがふさわしいような気がしてきた。

 

ゴッホを訪れた際は、「つのパン」を是非。